40歳を目前にして、図らずも「推し」ができてしまった。それはBTSのSUGAさん。そして、彼のソロツアーをこの目で見るために、先日、コロナ禍以降初の海外・ロサンゼルスまで飛んでしまった。どうやら「推し」は、人を衝動的な行動に導いてしまうらしい。まだ「推し」がいる自分にも「推し活」にも少し戸惑い気味の私だが、そんな状態だからこそ、今回は「推しと編集」について考えてみたいと思う。
「萌え」から「推し」へ
編集チームで今回のテーマについて議論した際、「萌え」という言葉が「推し」に置き換わったことで、誰かを「推す」という行為が大衆化した、という話になった。
「萌え」は、アニメのキャラクターや女性アイドルなどを主な対象に、自己完結する閉じた楽しみ方が多く、“性的”嗜好が強かったのに対し、「推し」はアーティストからスポーツ選手まで対象が幅広く、応援するだけでなく、他人に布教するといった周囲との相互作用を包括していて、その対象との“共創”の意味合いを強く帯びている。
これは、ブランディングや広告・PRの文脈で最近よく語られるようになった「ストーリー」から「ナラティブ」への変化と同じと捉えることはできないだろうか?「ナラティブ」とは、「ストーリー」と比較してより広義の「物語」を指し、企業と生活者の「共創」のため、生活者が当事者意識を持ちながら積極的にストーリーに参加するためのアプローチとして語られている。
言い換えれば、ストーリー(=リニアな一方通行の物語)から、ナラティブ(=同時多発的で多方向の物語)への変化によって、ファン一人一人が自分自身の「物語を接続する」ことができる、という大きな構造的イノベーションが起きたのではないか。
「推し」活のプロセスの中にある編集
BTSにハマって驚いたことのひとつが、BTSファンの愛称であるARMYの「編集力」の高さだ。ある人はコンテンツをいち早く翻訳して共有し、ある人は歌詞やMVに隠された背景や意味を分析・推察し、ある人はメンバーの性格を踏まえた仮想シチュエーションを展開することで共感を呼んでいる。
単に与えられたコンテンツを享受して楽しむだけでなく、自分なりに編集してそれを他人に発信・共有すること、それを通して誰かと繋がることが「推し活」の楽しさであることをはじめて知った。このプロセスにも、「ナラティブ」的な個々人の編集行為が大いに発揮されている。
また、世界中に多くのファンを作るため、レーベルやアーティスト側もナラティブなアプローチを意識的に試みている。BTSを擁するHYBEは、発信するコンテンツの量や質が優れていることはもちろん、ファンの満足度を最大化するために、ファン同士やファンとアーティストをつなぐグローバルファンダムライフプラットフォーム(Weverse)を自ら運営し、その機能を着々と進化させている。
たとえば、今年になって発表された新機能である「Weverse by Fans」はデザインから製作まで自分だけの公式商品を作ることができ、「Weverse DM」はアーティストとファンがDMでプライベートな会話ができるチャットサービスで、友人と対話するようなユーザー体験を具現化することで、アーティストとファンの「ナラティブ」な行為を加速させる。
「推す」ことの危うさ
ただ、アーティストとファンの関係性がナラティブになることで、アーティストと自分との境界線が曖昧になり、“歪んだ同化”によって行動が過激化するケースもある。Amazon Primeで配信中のドラマ『キラー・ビー』は、そんな過激派ファンの恐ろしさを描いていた。
元々ファンにとってのアーティストは手の届かない存在であり、受動的にその存在を味わっていたのに対し、現在はファンが積極的にアーティストに関わり、干渉することができる関係になった。その結果、アーティストを推すこと自体がファンのアイデンティティになり、アーティストを批判する人や興味がない人をさかんに攻撃したり、時にはアーティストを過度に神格化して彼らも人間であることを忘れ去ってしまったりする(それによって、アーティストの欠点や失敗によって過度なアンチに転化するケースもある)。
このドラマを見ると、推しがいることの楽しさを享受しながらも、推しの対象も推し活をしている自分も冷静に眺められる客観性を携えていたいと思う。
「推し」の先にあるもの
「萌え」から「推し」への変容の背景には、アーティスト(コンテンツを提供する側)とファン(受け取る側)の関係が、一方向の「ストーリー」から、受け手自身も語り、参加できる双方向の「ナラティブ」に変化したことが大きいのではないかと推察したが、それでは「推し」の先にあるものは何だろうか?
よく日本人は外国人に比べて自己主張が弱いと言われるが、推し活の現場を見る限りそんなことはない。推し活を通して「ナラティブ」の魅力を知った受け手たちは、自分でコンテンツを編集し、発信できる楽しさにますます夢中になるだろう。それによって、コンテンツを提供する側の層が拡大し、マスメディアやレーベルなどの企業だけではなく、受け手側であった個人がクリエイターとして発信・販売側になれるクリエイターエコノミーがますます拡大していくはずだ。
あるファンが独自性を持ったコンテンツを発信し続けることで、誰かの推しになる、というような多重構造もどんどん生まれるのではないかと思う。それが一般的になった時、「推し」はまた別の言葉に置き換わるかもしれない。
自分の好きなものや人を大声で好きと言える環境、その理由を語れる世界は尊い。そんな環境を生かし、個々人が「編集」の力を使ってもっと「ナラティブ」なものづくりを加速させてほしいし、私自身もそれを楽しんでいきたい。
- Written by 小林明日香(2期/Newsletter Editor)
海外の「推しの子」人気を加速させたリアクターの存在。 - Written by 小林明日香(2期)
最近、日本語楽曲で初めて米ビルボードのグローバルチャート「Excl. U.S. top 10」の首位を取ったYOASOBIの『アイドル』は、テレビアニメ『推しの子』のオープニングテーマだ。この楽曲もアニメ作品も視聴者が「ナラティブ」に参加できることが大きな人気を得た要因になっているという。
「推し」の舞台に自分自身を接続するための方法として、海外は「リアクション動画」が人気で、YouTuberのジャンルのひとつとして「リアクター」が存在する。「リアクター」の本来の意味は、“化学反応を起こさせる装置”だが、YouTuberのリアクターも何かのコンテンツを鑑賞する自身のリアクションを投稿することで、視聴者に化学反応を起こしているといえる。
「好きなアニメのリアクション動画を見たい」という動機から、「(推しのリアクターのファンが)彼らのコンテンツを見るためにアニメを見る」に変化したことで、アニメ視聴者層が拡大され、『推しの子』やオープニングテーマの人気が海外で加速したというのは興味深い。推しが推しを作り、さらに新しい推しを作る。そんな推し文化の進化を感じた。
『【推しの子】』が海外でヒットした要因を考察 アニメ受け入れ土壌に変化が?
やることだらけの自分の生活の中に「推し」があること - Written by 金井茉利絵(1期)
学生向けメディアに掲載されていた、甲南女子大学の池田太臣教授のインタビュー記事では、「推し」が社会学の観点から解説されていた。「ファン行動の可視化」や、「推しと自分=新しい人間関係である」など興味深い見出しが続く。最後に、なぜ人は推し活をすると思うか?という問いに、池田教授は、強い熱意を持って推し活をする背景には「自分の生活を自分のものにしたい」という思いがあると話す。やらなくてはいけないことだらけの、「自分の生活の中に自分で決定できる世界がある」。
「双方向のナラティブ」を求める気持ちの根底にあるのはこれかもしれない。そして確かにそれは大げさではなく救いといえる。自由にどこまででも好きになって、好きなタイミングで表現を受け取り、また表現もする。多少サポートありの人生の編集権という感じで、やはり推しは色んな角度で人生を豊かにするなと感じられた。
なぜ人は推しを作って、推し活をするの?
「ファンダム」同士は結婚できるのか? - Written by 濱田小太郎(1期)
Jリーグをスタジアム観戦するファンの平均年齢は「42.8歳」というデータがある。Jリーグが今年で30周年を迎えたことを考えると、この数字はどう見えるだろうか?開幕からの根強いファンが存在すると捉えられるし、反面、若い新規ファン層をほとんど獲得できていない、という見方もできる。
Jリーグは、おそらく後者と考えているのだろう。先日、若い層に熱狂的なファンダムを持つVtuber/バーチャルライバーグループ「にじさんじ」とのコラボレーションを行った。J1の各チームに担当ライバーをアサインし、LINEスタンプやコラボグッズの販売、スタジアムでのフォトブース設置などを通じて「にじさんじ」のファンをJリーグのスタジアム観戦にくるキッカケをつくろう、という狙いなのだろう。事前に設定した目標を、実際どの程度クリアできたのか?にとても興味があるが、SNS上では「にじさんじ」のファンが実際にスタジアムに足を運び、Jリーグの試合を楽しんでいる様子をシェアしていた。
このケースを見て感じたのは、今後「推しエコノミー」が大きくなる過程において、お互いのファンダムを「結婚」させて大きくしよう、という取り組みは成立するのだろうか?という問いだった。お互いのファンダムが違和感なく乗ることができる「ナラティブ」を生み出し、持続させることが可能なのか?という観点で見ることが、そのコラボレーションの是非を判断する一つの基準になるのかもしれない。
推しからの卒業は、自分への入学 - Written by Inou Masahiro(10期)
「推し活」とひとえにいっても、その内容は様々だ。日経クロストレンドの「「N=1」調査で探る新・消費者像」では、推し活に励む一人の女子大生の活動が紹介されている。彼女の推し活の特徴は4つ。「推しのグッズは、一旦その後の使い道は考えず、大量に購入すること」「海外限定のグッズも手に入れること」「推し活用のファッションがあること」「推しに直結する場だけが、推し活友達とのコミュニケーションの場ではないこと」。
記事内でも触れられているが、これらの特徴から読み取れるのは、推し活をしている時の「タイパ」を最大化したいということだろう。たくさんの商品を買うのも、限定商品を手に入れるのも、推し活のためのコーデをするのも、好きなカフェに行くのに、話の尽きない推し活友達を誘うのも、全て、自分の時間の密度を濃くしたいためだと言える。
それだけ推しに時間を費やし続けるとどうなるのか。取材の中で、彼女はそろそろ推し活を卒業したいと語っている。その理由は、推し活を通じて様々な価値観に触れたからだそうだ。言い換えるならば、自分が何者かがわかったということなのだろう。アイドルに卒業があるように、推し活にも卒業がある。そして、その先にあるのは、自分自身を推すことなのかもしれない。
「推し活女子大生」の“推し消費”4つの実態 根掘り葉掘り聞いてみた
_Book Club
『推し』時代における創作と編集
個人の作家性 vs 集合体としての一冊
芥川龍之介、夏目漱石、太宰治。
かつて時代を席巻していた文豪たち。彼らは孤独と向き合い、その内なる思いを言葉にしたため、強い引力を放っていた。ひと昔前は、彼らのような個性が際立った創作が主流だった。(現代における、個が際立つ作家というのは村上春樹さんくらいだと思っていますが、みなさんどうでしょう。)
アーティスト(コンテンツを提供する側)とファン(受け取る側)の関係が、一方向の「ストーリー」から受け手自身も語り、参加できる双方向の「ナラティブ」に変化したことが大きいのではないかと推察した
最近は先の小林明日香さんの推察にあるように、最近はストーリーからナラティブへの変化によって、創作のあり方も変わっているように思う。注目したいのが「54字の物語」「純猥談」といった、SNS発のオムニバス形式の作品だ。
「54字の物語」は企画作家である氏田 雄介さん編著の作品で、販売部数は累計60万部を突破。すでに10冊以上がシリーズものとして出版されている。SNSを見ると分かるが、「#54字の物語」は毎日のように誰かが投稿をしている。
「純猥談」は株式会社ポインティが運営する「自分にあったかもしれない、匿名の恋愛体験談」を投稿・共有するサービスから生まれた作品だ。10-20代を中心に人気を博し、匿名の物語が厳選され、書籍やコミック化された。書籍は12万部のベストセラー、6/20にはコミック最新刊として第4巻も発売され、飛ぶ鳥を落とす勢いで、今も人気が続いている。
両作品とも主体となる作者はいるものの、誰が書いたかは判然としない。でも、誰かの物語が誰かの共感を生み出し、ファンがついている。圧倒的な個性が際立っていた時代から、オムニバス形式の作品にも創作のフィールドとして可能性が広がっている。
こうした現象はコミック化された作品にとどまらない。
岸政彦が出した『東京の生活史』は、「150人が語り、150人が聞いた、東京の人生」が詰まっている。この本が第76回 毎日出版文化賞、紀伊國屋じんぶん大賞2022を受賞している。「ストーリー」から「ナラティブ」へとシフトしている社会には、どこでもいいから自分の居場所を見つけたいという人たちの願いが隠れているように思う。
編集者が求められる時代
これまでは強い個性が輝いていたが、これからは”誰かの居場所を生み出せる”編集者の活躍が予感される。共感を生み出す旗(コンセプト)を打ち立て、そこに集まる仕掛けをつくりだす力が重要な時代になっているのではないだろうか。
その力を養うヒントは、社会の空気を捉え、多くを包み込むコンセプトを打ち出す”編集”にあり、どのような世界観を演出することができるのかがポイントになる。
実は冒頭に出した文豪たちは『文豪ストレイドッグス』というマンガ・アニメに登場する。そこでは、作家としての芥川龍之介とは別の、マンガのキャラクターとしての芥川龍之介にリメイクされ、文学離れした若者からは【推し】の対象となっている。新たな世界観のもとで、文学への興味の入口が生まれているのは、いかにも編集の力がなせることなのだろう。
さて、編集の力をどう養うか。それは、ぜひ編集スパルタ塾の門戸を叩いてみてほしい。
- Written by Yuki Higuchi(9期/Book Club)